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2009-07-04 Sat [体験の記録]
人の睡眠時間は、6時間でいいそうだ。 「眠れてますか?」と薬剤師さんが聞いてくれたので、 「まあ、6時間は。」と言うと、 「じゃあ、ダイジョウブデスね」とおっしゃる。 ほう?いいのかい? そんなこと、初めて聞いた。 わたしは、平気で12時間くらい寝る。 出来れば7・5時間眠りたい。 なのでその欲求第一にしてきたのだが… 不思議だけど、 「じゃあ、ダイジョウブデスね」といわれてから、 6時間でダイジョウブデスになった。 嗤っちゃうけど、人の認識、案外そんなものかも。 2009-07-02 Thu [体験の記録]
前回記事の続き。 二つの世界のうち、 わたしは感情、思考、イデア、夢の、 瞑想世界にたゆたっているのがかなりお気に入りのようだ。 ※ちなみに、この世界に浮かんでいるときのことを、 以前お世話になった臨床心理士曰く、 ”意識レベルが低下している状態”とのことだった。 しかし現実には、 そう長いことは瞑想状態に浸っていられない。 ので、日常因果律世界に足をつけ、歩く必要がある。 が、足をつけ、歩き続けるのは わたしにとって結構ハードなことなので、 すぐに戻りたくなってしまい、 瞑想世界にぽよんと戻ってしまう。 両方を、殺さずに、大事に生きる。 そう決めた。 因果律世界に、 捨てたものでない美しいものを見出すことが出来たからだ。 両方の世界は、 空間的に断裂してはいるが、 ちゃんと繋がっていることが具体的な実例を通して確認できた。 さて、問題は、 わたしの苦手とする因果律世界を歩く方法を見つけること。 具体的な、仕事、行動にフォーカスすることを意識すること。 これがひとまずは頼りになりそうだ。 埃をかぶった「こどものバイエル」を引っ張り出して、 鍵盤をたたきながら、 暗号であるおたまじゃくしをルールに従って読み解き、 理論的に音楽を構成し、 音として具現化していってみた。 ふむ、なんとな、”意識レベルが通常”になった。 おもしろーい。 2009-07-01 Wed [体験の記録]
ふと、”われに返る”ような瞬間があった。 「わたしは三年間、 一体どこにもぐりこんで何をしてきたのだろう」、と。 この三年間の時間経過が、 まるで一塊になって抜け落ちて、 完全に消えてしまったと思った。 世界は、わたしに、 今までとはまるで違った様相を見せている。 座禅を組んで、 自身の考えや気分の中に身を浸したときの世界と、 ”我に返った”時に居た、世界。 この二つの存在を想って、 それらがどんなものか、 何とか言葉と接続させて現してみる。 電気のスイッチをパチン、パチン、と切り替えたとき そこに見えるものがまるで違う空間のように、 全く違う世界。 同じ言葉や意味、価値が一切通じ合わない世界、 と云う言葉も、 これら二つの世界存在証拠を言い当てるかもしれない。 一つは存在そのもの、 一つは意志のようなもの。 …そんな言葉も出てくる。 片方の世界に居る間には、 もう片方の世界との間には完全なる断絶があり、 「そのときのわたしには」完全に忘れ去られている。 出来ることは、 スイッチを自分で押す、 その意志と押す方法を持つことだけ。 意志は堅固に、 方法は完全にマスターしなければ、危ない。 行き来するための扉は、 いつも開けてあるらしい。 いろいろのアプローチを使って 扉にたどり着けさえすれば、行ける。 今、パソコンの画面に向かいながら、 二つの世界の間に立っているような、不思議な感覚だ。 それと、小さなような大きなような、 三年越しの願いが、一つ、少し、具現化した。 とても、とてもうれしい。 これからも、慢心せずに、満足せずに、 さらに佳くなるように、想い、願い努めたい。 そのことがあったために、 静かで、おちついたうれしさという気持ちを、 人生で初めて体験した。 2009-06-27 Sat [体験の記録]
やたら覚醒している。 怖い。 神経知覚過敏。 よく驚き、よく見える。 後頭部にも目がついたかのような感覚。 人の雑さに出会うと 地と天にきりきりとひっぱられている神経が痛い。 動悸、不安発作の前触れ、体の冷たさ。 しかし、人の神経の動きが手に取るように感じられる。 苦しみや悲しみ、覚悟や誠実さが神経に共鳴する。 優れた本を読んでも、そうでもない映画を見ても、 身振るうほどの霊感を感じる。 …これ、今思ったけど、躁? でも、気分は不快。 起っているのは、どうも、創造的覚醒のようだ。 完全なリラックスと緊張の調和。 でも、目の前のことの集中できず、 一日ぼーっとしている。 これでは日常に差し支えるので、 とうとうデパスを飲む。 ルドルフ・シュタイナーに拠れば、 覚醒は、季節的なものもあるようだ。 人間は自然の一部なのだなと改めて感じる。 2009-06-26 Fri [体験の記録]
過去の自分のような子に出会う。 「わたしにはこれが出来るから上、 あなたは出来ないから下」 「経験がある者がいつでも人間として優れている」 「解らないなら自分一人でがむしゃらに努力せよ」 「わたしの言うことはいつも正しい、 これを理解できないあなたが間違っている」 「他の誰でもない、 わたしじゃないと、このことは出来ない」 こういう種類の考えを、わたしに飛ばしてくる。 人から好まざる考えが飛んでくる、ということは、 わたしのなかにもその好まざる考えの種である、 感情(逃れられない真実)が共鳴して生みだされる、 ということであり、 真実感情をなにより大事な存在として扱うこと、 これを舞台で訓練してきた者としては、 好まない感情でもなんでも、何より大事に扱う。 それゆえ、かなりの苦しみを伴う体験となる。 人から飛んできた考えをこころから受け止めてしまって、 自分の中にも生じさせてしまうと、 そのときは、まるで自分に答えを見せる、 ぴったりの考えのように思うのだ。 3日ほど、 好ましくない価値基準が、 自分の存在をわし掴みに捉える状態にさんざん苦しんだ。 そして、やっと、今夜、落ち着いた。 これらの考えは、 彼女が今まさに生きているフィールドのものであって、 わたしの生きている場所に付随しているものではない、 ということが理解できたためだ。 初めは彼女と同じ場に立って、 自分の意見を発言しようと思った。 (前回記事参照) しかし、いかんせん、気が向かない。 対抗表明を具体的に考えれば考えるほど、 自分がなにか、芯から毒されていくのを全身で感じ、 大事にしようと志しているなにかを完全に失いかけた。 そこで、彼女に対して、 こころを開いていようと心がけることを、完全に諦めた。 悲しいけれど、わたしと彼女はもう、 こころの次元で出会うことは無い。 彼女には必要だけれど、 わたしには必要が無い、排除すべきベクトル。 わたしは彼女の暴力的な態度を和解に導こうとして、 マハトマ・ガンジーの記事まで読んだのだ。 …無理でした。 過去、自分が彼女のようだったときの、 周りの人々の顔をたくさん思い浮かべた。 皆、暴力的な考えを飛ばすわたしに、 彼らは、その優しいこころを守ろうと閉ざしていたのだ。 だから、私には誠実な友だちも出来なかったし、 肯定的な協力者も作ることが出来なかった。 愚痴や不満、悪口、悲しみの逃避で繋がる腐れ友達はいても、 遠巻きに眺めて近寄ってくれない私が好きな同僚はいても、 わたしの真剣勝負の場を、あえてシャレにすることで 一応手を貸すポーズを見せてくれる先輩はいても。 自分自身、そして相手も、 こころの芯から温まるような、 誠実な、ほんとうのことを共有できる人はいなかった。 だから、私は、ひとり。 そう考えると、 この現象はとても、当たり前のことのように思う。 わたしの、 彼女に対する態度の選択は、 理想とする信念からかなり、はずれるような気がする。 しかし、人と人との関係性においては、 これが正しいのだとも、なんとなく、思う。 自己責任でもない、 責任転嫁でもない、 多様因果律のダイナミクスを見せる”関係性”そのものに、 問いと、答えを、還元すること。 誰も責めなくてすむ。 彼女の問題は、彼女の問題。 わたしが問題を抱えていても、 皆、ほおって置いてくれた。 今回の苦しみは、体験してしかるべき苦しみだった。 自転車で走ると、冷たい夜風。 青い稲の田んぼから、かえるの胸音がころころころ。 何日かぶりに、 静かで、落ち着いた、 淡々とした夜が戻ってきた。 今夜の座禅は、きっと心地いいだろう。 2009-06-24 Wed [体験の記録]
自分を表明すること。 自分を尊重し、相手も尊重すること。 わたしと、あなたの、権利を主張すること。 これが、出来ん! そのためにしんどくなっている。 ここ公開日記上では、 こころの中のものを表明したり出来るようになった。 それは自分のスタンスを強引に表明したからだ。 「ここはわたしのばしょだー!!」という乱暴気味な表明。 だけど、現実はそうはいかない。 (あたりまえ) 腹立たしい、屈辱的、侮辱、恥ずかしい、憤り。 無言で試行錯誤。 頭でいろいろ考えるけど、そのこと自体に苦しめられてもいる。 屈辱感を感じ、 腹が立っていることを感じるというのは 非常にエネルギッシュな状態で、 新しい行動をがんがんに起こすほどの活力になる。 変な話、「生きている」と確かに感じる。 世界と自分との接続が完全に出来ている。 あまりに明晰に見える世界に恐ろしさも感じる。 車の運転が非常に怖い。 お酒を飲みたくなっているが、 飲んで紛らわすことで、 状況や問題、わたしのご気分はまず悪くなるだけ、と解っているので、 たばこばかりを吹かしている。 あぁ、つかれた〜。 2009-06-21 Sun [思うたこと]
なんかこう、自分が現実空間に拡散していく感じがする。 今ここ、に足をつけ過ぎていて、そのしっかりとした感じに戸惑う。 なにか一つ、ほっとすると、次に一つ、迷いが起る。 自分のとる行動についての選択で常に迷い続ける。 なにか一つ、腑に落ちると、次に一つ、疑問が生じる。 自分が理解したい対象がどんどん移行していく。 「留まっていられない」という感じだ。 自分の奇妙な歩みにくっつけた”納得のつく物語”すらも、 今、さらに前に進むためには、邪魔になっている。 新しいものを取り入れられないので、 必然的に、古いものを捨て去らなければならない。 それを続けていると、 「決めて、動いている」とき、 「からっぽ」になっているときと、 「あたまがごちゃごちゃ」になっているときの繰り返しのよう。 …何を云う。まあ、至って自然なことなのだろうが。 根っから観念的なわたしはこの自然さに戸惑っている、というわけ。 それに、三年も無為徒食に養生してきた身としては、 なかなか新鮮で忙しいプロセスだ。 不安で、怖いが、楽しくもある。 次、なにをするか?で常に足踏みしていることになる。 …これがなかなかしんどい。 下手をすると憂鬱の沼にはまる。 このしんどさを佳く越えるには、 行動を選択しなければならなくなる。 一つの行動を選択するということは、 いろいろに輝くたくさんの行動の種を一度捨て去って、 たった一つのの可能性にだけ賭けてみることのように感じていて、 それをすることが、どうにも、怖い。 どうにも、時間を無駄にしたくない思いがさらに行動をさせない。 行動をせき止めるものの根底にあるのは、 選択は一発で、正しい道を進みたい、間違いたくない、 失敗したくない、という思考癖だ。 選択した道を変更することも怖がっている。 一つの道を選択したら、 一切軌道修正を許さない、というなんだ、この職人気質。 実際、志した道を今、変更してるくせに。 まあ道は、 その指す世界が人間にとって優れていればそれだけ、 内的にこういう気質にさせられるというところがあるのは否めない。 妙な忍耐力がついてしまう。 あくまで、妙。変態といっても良い。 ふむ、そうか。 書いていてわかった。 ムリムリ。一発でなんて。 いつも思い描いた理想に似たような、 正しいことばっかりできるわけない。 失敗・間違いが無いわけがない。 結局自分を信じるしか方法が無いなら、 道を変更したほうが正しい道を行くと言うことにもなるだろう。 人から見て一貫していないことを恐れているのは、 自分が一貫していたいという不自然な概念。 そもそも「自分はこうありたい」という 自己愛の強い観念自体を信念として保ち続けると、 「価値ある仕事」はできなくなってくる。 どう転んでも、歩いて月に行くことはかなわない。 ああ、三年前に目をそらした問題は、 ほんとうにそのまま保留されていた。 ぜんぜん解決を見ていない。 もう、ほんと怖がりだな。 ということで、結果はさておき、 とりあえず、なにかやるしかないの、だね。 親はこどもの自発的な行動表明には心配を焼くものだろう。 彼らは彼らに課せられた困難で長い道を歩んできたのだから、 子どもが行動を起こすときには 「そりゃ、失敗するだろう」という自身の経験からの直観もあるだろう。 しかし、わたしはまだ彼らほど、 自分の人生を享受しきっていない。 歩かなければ、享受できないのだ。 どうか、歩かせてくれ。 親のような生き方はしたくなかった。 親は、家にいなかった。 本当に話したことなど、無かった。 いつも、「嘘」を感じていた。 母は、父を愛してはいなかったし、 父もまたしかり。 嘘をついて、家族と言うシステムを機能させるために 親はがんばった。 子どもとしては、ぜんぜん嬉しくない。 たまに悪いことをすればただ感情に任せて意味無く怒鳴られ、 たまに助けを求めれば「自分でわかるでしょ?」と放置された。 何も、こころから話すような、ほんとうのことをくれない。 それをくれるところに出て行った。 中学校二年目には、もうわたしは家にいなかった。 …くだらないことを書いているな、ほんとうに。 だから、どうだ、いい、悪い、と云っているわけではないのだ。 わたしはこの三年で、やっと親と対面したという気分なのだ。 「どんな人か」なんて、ぜんぜんしらなかった。 愛憎の両親を離れ、 自分の選んだ道を歩んで、もう戻らないはずだった。 しかしつまずいた。 帰ってくる、という選択をしたのは、 わたしには屈辱的な行動だった。 おびえているわたしはたくさん心配をかけ、 生きることを助けてもらった。 考えれば考えるほど、 「家族なんだから」というセリフは、嘘だと思うようになった。 人は、望みもせずに生まれてくる。 一人残らずだ。 「だれでも生きている意味があるよ」 「誰でも同じように価値があるよ」 「このご両親のもとに生まれたのも、必然なんです」 この流行のフレーズは、わたしは賛成しない。 もっと、現実的に、 人間的に、 主観的に考えを進める必要があるんじゃないかと思う。 人間に思考できる思考方法でね。 何も無い、空虚なところに、 誰でもない、自分自身が、意味、価値、必然を与えるのだ。 生きることを課せられているのだ。 たまたま、両親のところにわたしという人が生まれてきた。 両親もまた、 望まないままに課せられた生を生き抜く親のもとに生まれ、 課せられた人生を自主的に自分の生に換えるべく努力を続ける。 人の存在は、家族だからという理由で縛られるほど軽くない。 その人の魂の道を歩むこと。 そう生きなければ、きっと悲しいことになる。 とても残念だが、わたしはそう思う。 わたしには親に対する罪悪感がある。 もう、自分で歩んではならないのではないか、という気分。 親の期待するしあわせ像に 応えなければならないという気分。 「してもらったからしてかえさなければ」という気分。 どれも、きっと正しい時もあるけど、 ”今は”少し間違っている。 行動するに必要なだけ、ぶち破らなければならない。 今、ぶち破ったとしても、 一生涯、完全に捨て去ることなど、出来るものじゃない。 乗り越えなければ。 人生は短い。 行動、行動、行動だ。 信念は、行動から生まれる、。 行動は、信念を生む。 このマントラを信じてみようかとね。 2009-06-18 Thu [思うたこと]
感情は、ありのまま受け止める必要がある。 これに反して、思考は錬金を試みることが出来るし、するべきである。 感情は、思考になり、行動に繋がる。 それがごく普通のことと思われるが、 わたしはこの”普通”を推進しない。 まず、感情と思考。 われわれは普段、あまりにも、 感情と思考を一体のものとして動かすことに慣れすぎている。 一見、有機的に働き、 一貫しているように見え、 正しいように相互協力しているこの二つを切り離して眺めてみることは、 なかなか意味のあることだと思う。 うつのときの認知療法が有効と云われる真意はここにあるのでは。 湧いてはいけない感情などない。 さらに云うなら、人は人の中で生きるなら、 すべての自身の感情の存在を認め、 全身で味わいつくす必要がある。 子どもの場合、それを感じてもいいのだと容認してくれる人が必要だ。 そして、こころのままに考える彼の思考を固定させないように、 出来るだけたくさんの数の思考方法を、 大きな幅で見せてあげる必要がある。 義務教育の教科の中には、それが出来るものばかりだ。 なのに教育システムと教師は、それをやってない。 すくなくとも、わたしは受け取れなかった。 なぜかな。 考えること。 今、”現実”として自分の胸に去来している感情を、 どのように、どのような思考と結びつけるか、という問題だ。 さて、どれだけの思考方法があるか? 魅力的で、わくわくして、ほんとうな感じのするものがいい。 どんなものが、ほんものの思考を育てるのに一役買ってくれるか? 我が家の世界地図は10年前のものだったので、 今日、2009年度版の世界・日本地図を買った。 お茶の間既存の物語的な思考方法は神経に悪い。 そんなものは、一切選ばないに限るのだ。 行動は、今のわたしには、まったくもって、未知の世界だ。 2009-06-14 Sun [思うたこと]
世界が霞んで現実のものと思えなかったり、 自分以外の人間が誰も存在しない、孤独の中に独りいるような気がする。 今にも正気を失い、狂いそうな気がする。 そのような時の自分は何をしているのだろうか、と想っていた。 実際の生活の中で観察してみて、 一つ判明したことは、 何か大事なことを隠しているとき、のようだ。 隠し事、。 隠し事など、人間であれば、皆、しているように見える。 ここで書きたい”隠し事”は、 「他人に対する嘘つき行為」ではなく、 「自分に対する嘘つき行為」、だ。 自分に対して嘘をついているかどうか、というのは、 媒体が無ければ、体験として見ることが出来ない。 一人で考えていても絶対に解らない。 人は、一人も同じ人がいない。 これは驚愕の事実だ。 「わたしとあなたは似ている」と言っても、 一人の人の世界宇宙はとっても私秘的なもので、 人と人との出会いは実は、驚きと疑問の連続であり、 どんなエモーショナルな映画よりも衝撃的な体験なのだ。 生きた人に接することで、 自分と異なるもの、 嫌っているもの、憎んでいるものとの出会いの痛みが生じて初めて、 自分の真の姿が見えるようになっているようだ。 違うことに飲まれて、「その人」にならなくてもいいのだ。 「その人」と、「わたし」が違う、ということが、何より重要。 ここに、人の中で生きることの痛みの価値がひとつみつかった、うれしい。 わたしは、精神的破綻の前に、大きな嘘をついた。 わたしには大事なものがあった。 大事に思っていることがあった。 それを理解しない人に、強烈に怒っていた。 モーレツに怒りを感じている、 彼らを責めたい気持ちで充満している自分を、自分自身に隠した。 怒りを抱く未熟な自分を責めたためだ。 怒りを隠す人は、体が震える。 交感神経が緊張していて、動機がするし、空咳が出る。 感情を抑圧する自我をつかさどる頭脳が、 恐れを抱いている。 怒りを感じ、それを表現することを。 結果、ますます感情は膨らむ。 膨らんだ感情は、 どんなに少しの隙間でも見つけて、外へ流れ出たがる。 いまかいまかと待ち構えていて、 時とバアイを選ばずに、少しでも、外へ出ようとする。 なにを言われても、ちょっとしたことでも、怒りを感じる羽目になる。 しかし、わたしのバアイは、 怒りらしい感情が、 怒りとして認識されていなかった。 流れ出たがる感情の体感は何かと言えば、 「痛み」だった。 なにを言われても、何に出会っても、いちいち、痛い。 感じやすく、不安定。 不安でたまらないので、 ささやかに人々に助けを請い、 理解されず、共感されず、 説教され、諌められ、 笑われているような、尊重されていないような、 見下されているような気がした。 なにより、怒られ、責められているような気がした。 会う人すべてが、わたしを責め、わたしを怒っているように見えた。 誰も、”かわいそうなわたし”を理解しない。 誰一人。 そのことに、命の底から絶望した。 ”他人に理解・擁護を求めること” の望みを、一旦、本気で絶ち切ったからこそ、 自分で自分の奇妙な働きをする神経系を守り、 尊重し、愛し、理解しようと試み始めたのかもしれない。 自分の問題は、自分で解決しなければならない、と。 このころから、わたしは”雑談””四方山話”を苦痛に感じるようになる。 それがなぜだかが解らないので、非常に苦しんだ。 なぜ、自分は人と楽しく話せないのか、と。 思ってみれば、自我が芽生え始めてから、 人の中に群れるのは、ずっと苦痛だった。 痛むからだを叱咤激励し薬を山のように飲んで、 なんとか人の輪に入ろうとしたが、 苦痛だった。 この努力がどんなに不毛であり、 自分を傷つけているか? そして、人を傷つけているか。 自分が思っているほど、人は自分のことを気にしていないし また、自分が思っているよりも、 人は自分を受け入れてくれている。 「一人でいることは不幸」 「自分を通すことはいけない、 全体の”和”、団体生活を重んじるべし」 この儒教的固定観念は、 どこからやってきて、 どのように人の精神を蝕むのだろうか。 文字通り、生命線。 生きていけない、命に関わるような恐怖を感じるのだ。 インターネットを通じて、 同じように感じているご自分を責めて、 様々な形で戦う人々が多くいることを知った。 わたしはこの恐怖の感情の始まりを記憶している。 幼稚園の扉をたたき、 うようよと園内に満ちる幼児達を見た、そのときだ。 この恐怖を感じる自分を否定して、克服しようとしてきた。 しかし、感じている自分を見つめるだけでよかった。 戦って、勝敗を決めなくてもいい。 認め合い、志を立てればそれでいいのだ。 自分で隠しているものは、世界が映して見せてくれる。 このことが本当なら、その仕組み自体が希望だ。 この仕組みの理解は、 自分のみならず、他人を理解するよすがになる。 わたしは、自分にとって、 大事な大事なものがあったにもかかわらず、 「人からの批判、無理解、孤立すること」を恐れ、 自分が感じていること、考えていることを否定し、 存在や生命の危機に直面するほどの大きな嘘を、 自分自身についたのだ。 自分にとって、何が大事なものか。 誰に強制されたものでもない、自分がこころ惹かれるもの。 邪険にされたら、怒りが湧いてくるもの。 人が理解しなくても、笑われても、侮辱されても、 自分だけは、その子のことを信じてやらなきゃいけない。 自分で自分の大事なものを信じられたら、 人の大事なものも大切に出来る。 自分がつながりを感じている人の目を、 まっすぐ見る事ができないとき。 その時は、自分に隠し事をしている、 と考えてマチガイナイと思う。 そんなことを言うまえに、皆、要らぬ隠し事をしすぎて、 人の目をまっすぐ見る機会に恵まれなさすぎなようだが、。 自分だけに見える大事な世界を霞にしないために、 小さなことでも正直になるに限るのだ。 2009-06-13 Sat [思うたこと]
なぜ、目の前の人が見えないのか。 自分を見ていないからだ。 自分が感じることを生きた痛みと共に正直に見ていなければ、 人の感じていることはどんなに想像力を働かせてもわからない。 このような状態にある時には、 目の前の人が感じていることを「あなたはこうでしょう」 と確信しているように話すが、 なんだかどこかで聞いた物語のように表現される。 今ここで生きている人間にとって、 自分が空想上の”だれか”になる様子を眺めるのは、辟易とする。 その空想物語は全くもって自分の世界を出ていない。 時間も進んでいない。 「どこかで聞いたもの」 「誰かに聞いたもの」 「昔の考えが発展していない抜け殻のまま」。 自分の世界を出ない想像は、”妄想”と云う。 自分の思考回路の因果をつぶさに観察していなければ、 人の言葉や思想、行動に秘められた考え、 その動機となる切なる想いを想像することができない。 これははっきり云って、お手上げだ。 自分に正直にならないことが、自分に嘘をつくことが、 自分のみならず、人に精神的暴力を与えている 具体的な打撃の一つがこれだと思う。 わたしが今歩いている道が 自らの中から精神的暴力の発露を取り除く道だ。 まずは、自分から。 わたしは人に暴力を与えた。 そこで初めて精神的暴力の恐ろしい力を知った。 与えたことで、自分にも与えられていたことに気がついた。 自分に正直になることを許されなかったその人こそ、 芯から癒されなければならない。 ほんとうの意味で”生きること”が癒される過程は、 胸の痛み苦しみを避けて通れない道を行かねばならない。 抱えられない痛みと苦しみから誰も守ってくれない自分を守るために 正直な自分を許せずにしまいこんでいるのだから、 その道は恐ろしいに決まっている。 恐ろしいことに、向かっていかなければならんなぁ。 それがしあわせへのひとあしだと、 ちょっと信じているんだったらなおさらなぁ、。 ふう。 道は長い。 |
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