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しばらく、ここをお休みしたいと思います。
誰にも言えないこころのなかのドグマを、後先考えず意味なく吐き出している、
そういう場になってしまいました。
なんとか今の現状を生きるために、
そういう場所が、必要だったのですが。
わたしには、誰も居ません。
ここしかなかったんです。
しかしあまりにも、あまりにも自分の勢い任せすぎるので、
人と人の間で一生懸命生きている方たちが、
ここを読んでくださった方がしんどくなることもあったのじゃないかと思いました。
自分の内部の戦いをそのまま書いていただけなのです。
しかし、そんなものは、読んでいたら辛いですよね。
これはわたしにとって、ほんとうのことだったのですが、傷つけてしまってごめんなさい。
いままでお世話になった方たち、
読んでくださっているという配慮なくぶちまけて、ほんとうに申し訳ありません。
よいクリスマスを、よい年末を。
良いお年を!
また会う日まで。
お元気で!
共に、生きていきましょうね。
あなすたしあ
自分はいよいよ人非人と化してきたような気がする。
くだらない妄想が暴走して、とまらない。
あながち妄想でもないんだと思うけど。
自分は実際、深刻な精神の病気なのだろうか、そう思うぐらいだ。
たくさんの「わたし」みたいなものがあって、
俳優がたくさんの役を演じ分けるように、
たくさんのわたしをやっている。
そうして生きている今を悪いとも思っていない。
何が正しいの?
もう何も信じられない。
こんな目から見える世界、ほんとうに悲しい。
もうああだこうだと、考えをこねくり返す元気も無い。
どうでもいいから生きていこう。
とりあえず、生きていこう。
親よりも先には、死なない。
それだけ。
もうなにもかも忘れて、心地いいことだけしよう、
そう思っても、心地いいことも忘れた。
何が楽しいかって。
何も楽しくない。
こころが澄み渡るような、
不可思議で、うつくしいとも醜いともいえないもの。
でも、それだけで息を吸っていられることを感謝できるもの。
それらは、人の創りしもの。
その根底にあるものは、生きる苦しみだ。
ちぎれたまま、破かれたまま、
ただ孤独な個として生きる、苦しみを引き受けた末の産物に他ならない。
わたしたちが生きて、呼吸をするときにありがたいとただ感じられるのは、
過去の、今の、未来の人たちが、苦しみのあまりに吐き出したもの。
それらの命を頂き、われわれは生きていられる。
今、ここに居ない人の苦しみは、見えづらい。
ただ、その人の不可思議な命の重みを伴って生まれたたべものは、
「天才」とか「賢人」とか「偉人」の産物とか言われる。
しかし、本質は、そこにあらず。
わたしが生き抜くために苦しみあえいで生み出した苦肉の産物が、
人の魂の鏡となりえたようにまた、
人の苦しみの挙句の悪あがきが、
わたしの真の命を救う。
人が人に出来ること。
人が憧れを持って、手に入れたいと思うもの。
それは、耐え難い自分自身であることの苦しみに他ならない。
だから、苦しんでいる人を、わたしたちは愛する。
今愛せなくても、未来に生きる人たちや、遠く離れた人たちが、
わたしたちを愛してくれる。
生きる、という、この世で最大の苦しみを、
好んで享受し続ける人に、わたしはなりたい。
傲慢であれ。
高飛車であれ。
皆、苦しい。
ならば、これがなければ生きていかれない、というものを内側からみつけたら、
自分以外のものとの齟齬を一生、じっと我慢して、愛せよ。
あなたは、正しい。
自立したい。
今出来うる限りの、自立をしたいと思う。
そのために、丁寧に、無理せず、がんばりたいと思う。
自分には無理なことは、無理だと認める勇気。
自分に出来ることは、やる勇気。
したくないことは、しない勇気。
こころに従う勇気。
非難をこころに受け入れない勇気。
馬鹿にされることに耐える勇気。
余計なアドバイスを聞かない勇気。
従属しない勇気。
人の苦しみを頼まれもしないのに取り除かない勇気。
甘やかさない勇気。
ほおって置く勇気。
待つ勇気。
対等にあることを要求する勇気。
へりくだらない勇気。
わたしは男の人になりたいのかもしれない。
ひとつ思いついたこと。
わたしは、あまのじゃくです。
という自己紹介。
三連休だった。
よくたべて、のんびりして、よく読んで、よく寝た。
よく遊んだ。
昨日は愛とか信じることとか忍耐とか苦しみのことで、
胸が一杯になってしまって、
深夜に、赤ワインを飲みながら、遠い友人に電話してしまった。
それから、独りでテレビの音楽特集でやっていたソウル・マンを観ながらぶんぶん踊って、
お風呂に入って、ぐっすり寝た。
関係を放棄して願うことに踏み出してみたら、
どれだけ自分が愛されていたかを理解した。
愛についての今までの苦しみも悲しみも、吹っ飛んだようになくなった気がして、
それと同時に、忘れたくて忘れていたらしい、いろいろのことを一気に思い出した。
なんで、そのときに解らないんだろう。
なんだって、大事なことはすっごく後になってから解る。
昨夜はどっちにしても、気分が上がっていたようで、
今日はずっしり。
だからといって、大丈夫みたいだ。
ずっしりだって、今日という日に違いない。
しかし、そろそろ、デドックスしていかないといかん。
手始めに、大根を食べた。
でもマヨネーズを付けたら、意味が無いよね?!
…。
新潮文庫 Yonda?パンダの腕時計新潮文庫を50冊購入して読むと、腕時計がもらえる^^
…これがほしくて。
せっせと文庫を読んでいます。
こんなことするのはほんとに久しぶりだし、
50冊という大量の文庫を購入する上に、「ガラスにプリント」。
「ガラスにプリント」って、日々着用していたら、はがれていく可能性高いですよね…?
中古で買ったらどれだけ安いかという本を、
いっぱい購入して。
ばかばかしいぃ、無駄遣い!と思いつつ、、、。
ペタペタ台紙に応募券を貼るときの楽しみもなかなかのもの。
最近の購入歴はこんな感じ。
ジョバンニの孤独は、よく解る。
幼いころから劣等に感じていた孤独感が、ここに書かれていたのを見つけたとき、
無意識に、宮沢賢治を師に、と選んだのかもしれない。
朗読、楽しい。
河合隼雄先生大尊敬。
村上春樹は知的過ぎてあまり好きじゃなく、
その佳さを解らないけど、面白い方なのだろうと。
衝撃。
ヘッセのいろんなものも、改めて、読みたくなった。
天才。
ハムレット。
日本には、ハムレット王子がたくさん居る。
そのことで辛くなるときもあるけれど、とても貴重で、いとおしい王子たち。
かれらと、わたしが共に居られることを願う。
さてさて。
加速する購入欲。
次は何を買おうか。
本屋の仕事の合間に、それをぎらぎらと考えている。
感情に流されてはならない。
感情が何よりの行動の指針だと信じて疑わなかったときには、(←これもナイーブね)
ただ、大事な人のこうふくを願う、ということの意味が全く、解らなかった。
ただ、願う、その意味は、
自分がその人とのあたたかな関係を持つことを放棄しても、
こうふくを願う、ということらしい。
おぉ。
なんとおどろくべきやさしさ。
これすべて、わたしが関わった人に教えてもらったことだ。
あたたかな関係を持つことを独り静かに放棄するのは、とても、辛く、悲しい。
胸がふさがれるような作業だ。
泣くことすら容易にできない。
自分の態度を相手が受け止めたときの悲しみもなかなかのものだ。
あたたかな居心地、その人の気配、その人の雰囲気、
まるで空気のように感じられたそれを自ら捨て去るのだ。
自分のこころが痛んだように、
相手の心も痛むのが手に取るように感じられる。
抵抗があって当然。
これは断じて、傷つけあいなんかじゃない。
より高い、やさしさなんだろう、、、。
…おい、わたし、なんだ、こんなことも知らなかったのか?
それじゃ、両親のことを理解できなくたって自分の不足だったんじゃないか。
とも、思う。
そんなの当たり前と思ってはいても、ですね。
大事な人と共に居たいがために、
自分を捻じ曲げることもある。
捻じ曲げたって、それが悪いわけじゃない。
関係することを放棄する強さを常に持とうとする人を愛すると、
同じことをせざるを得なくなる。
反対に(というのも変だが)、何事も救い上げてくれる人を愛すると、
同じことをするようになるだろう。
どうもわたしは二元論者のようだな。
これ何とかしたいんだけど、。
まあ、今はとりあえず、これでいいか。
いつか不幸の影が二元論も砕いてくれるだろう。
救い上げる人と、放棄する人。
両方を求めて、愛したような気がする。
二人が、わたしを両脇から支えてくれている。
なんにせよ、こうして考えていられることも、それだけで、有難い。
何にせよ、一人では立っていられない。
でも、一人で立っていたいと思う。
でも、やっぱり無理だったりする。
無理だな。
でも、やっぱり。
そんなことの繰り返しか。
これが自分の仕事だと思えることがあることは、やはりこうふくなことだ。
絶対に解り合えないからこそ、人と人は共に居ることがこうふくだ。
父、母と、三年同じ屋根の下に居て、
今日、とてもうれしい言葉を書いて贈られた。
わたしの信じている、理解してほしい、そうなってほしい、
と思っていることの物質的側面ではなく、
精神的な本質の生きたかけらを、二人は受け取って飲み込んでくれたのだ、と感じた。
それをそのまま、わたしに返してくれた。
いい年こいてから、ずいぶんと自分のことで混乱させてしまったが、
ほんとうに有難いし、うれしい。
こうして、時間をかけて、大事な人たちに、願いを届けて行きたい。
願いは、届くことがある。
それを目の当たりにしたような一日だった。
うまくいかない、うまくいかない。
そんなとき、自分や相手のあら捜しをして、
憎しみがわいてきて、怒りがあふれて、憂鬱になり、
ぷすんぷすんと不活動火山のように生きる。
それこそを乗り越えていけることがある。
自分だけの力では、どうしようもない。
いろいろの風が吹き凪ぎ荒れることがあり、いつか噴火を免れることがある。
そこで一番問われるのは、「待つ」力なのではないか。
風を、ただ待つ力。
真夏の夜、一人暮らしでクーラーが無いとき、
扇風機の風もお隣のクーラーの外気で温まり、もう寝れず。
思い切って扇風機も消し、
ただ、自然の風が吹くのを待ち続けた。
楽しい夜だった。
…私に一番足りないのは、行動する力なのだけれど。
だから、私には、行動する人の存在が、必要。
行動する人の背中を見なければならない。
習わなければならない。
宮沢賢治の書いた<グスコーブドリの伝記>のように、
精神的な飢饉の病の中に自らも投入されて生き続け、
おしまい、少しだけ、田んぼにオリザが実ることがありますように。
そんな夢見がちな理想主義は、もう、祈りの力でしかないような気さえする。
しかし、わたしはそれを信じようと思う。
うまういかない、うまくいかない。
そんなときは、べてるの家の保健師さんのように、
「これで順調!これで順調!!」
そう言いながら、こつこつ生きていればいい。
夢や願い理想をかなえるために、物質が存在する。
時に、物質は肉体的存在である私たちを惑わせるのだ。
否、惑う必要も、絶対にあるのだ。
焦らず、出来るだけ正直に、楽しんで行こうじゃないですか。
惑って、迷ってね。
大丈夫!!
だいぶ恥ずかしい記事となりました。
どうぞ、ご勘弁願います。
ああ、すっきりした!!!!
人は、本来混沌とした、泥沼のような、アメーバなのだ。
堂々と、自分に対する根拠を並べ、意味を説明し、
意見を延べ、解答をする。
そんな必要は無い。
ただ、それをすることが出来るのは、”立場”があるからなのだ。
もしくは”責任”、”信頼”、”愛情”、”信ずること”があればこそ、
人はある一貫したイメージで自分を語ることが出来、
見せることも出来る。
虚無を越えて 南 直哉氏ブログよりどんな立場に立つか。
それに怒られる、怖い、=自分がそれに対して怒っている。
とも言うのではないでしょうかね。
怒っちゃったほうが、いいときもありますよね。
時と場合によりますけどね。